12月:『いと高きところには栄光、神にあれ。』(ルカによる福音書2:14)

 クリスマスの夜、羊飼いたちに天使達が歌った歌の歌詞が、上記の言葉です。「この天使に天の大軍が加わり」と記されているので、空いっぱいに天使が居て、フル・オーケストラのような壮大なスケールの大音響だったのでしょう。羊飼い達は、大いに驚きながら、神様のなさることの偉大さに感動したことと思います。

 どうやら天国は、音楽と歌声で満ちているようです。聖書には、天国で天使達や、この世を去った人たちが、神様の前で、賛美の歌を歌っている場面が、よく描かれています。また、神様を信じる人々も、よく歌います。聖書には、本来、歌うために記されたお祈りの言葉がたくさんありますし、教会の礼拝も、元々は全て歌っていました。人間は、歌う生き物のようです。

 歌は、私達の心を喜びに導いてくれます。感謝祭でも御覧頂いたように、子どもたちは喜んで歌っています。私達も歌うことによって元気になります。

 歌は、神様が私達に与えてくださったプレゼントのようです。私達は歌うことで喜びの心になり、共に歌うことで人々と深いつながりを作りだし、そして賛美の歌を通して天国とつながります。

 「あらののはてに」の聖歌は、クライマックスで「グロリア、イン、エクセルシス、デオ」と歌います。これはこの聖句のラテン語の言葉です。この聖歌は、天使達の歌声を再現したものなのです。クリスマスをお祝いするのに、もっともふさわしいものは、賛美の歌声です。

 こどもたちの歌声は、正に「天使の歌声」です。この美しさは、歌の技術によってではなく、心の美しさによって作り出されます。私達もこどもたちと共に歌い、クリスマスをお祝いしましょう。

11月:二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのです。(マタイによる福音書18:20)

 一番最初の教会には、当然の事ながら、今のような立派な礼拝堂はありません。整った組織も、十分な資金もありません。ほんの少しの人数の信徒が、それぞれの家などに集まり、迫害を避けながら、ひっそりとお祈りしていました。冒頭の聖書の言葉にもあるように、正に2、3人ほどの教会も多かったことでしょう。社会の中では本当にちっぽけな存在、吹けば飛ぶような無力な教会ですが、けれどもその交わりには、温かさと力がありました。わずか2、3人とは言え、心の底から祈りを合わせ、力を合わせて活動している時には、その交わりのただ中に、イエス様がいてくださるのを、信徒は感じたのです。この聖書の箇所は、聖書記者が交わりの喜びを感じながら、イエス様が言われた言葉を思い起こし、その言葉の正しさをかみしめながら、活き活きと書き記したものだと思われます。

 キリスト教の大切な要素の一つが「コイノニア」~ギリシア語で「交わり」の意味~だと言われています。これはあくまで、愛の交わりです。共に神様に祈り、世々の人々を覚え、困難の中にある人々に奉仕するためのものです。単なる「仲良し集団」ではなく、ましてや、味方の数を増やし敵をやっつけようと言うものでは、決してありません。

 人は一人では生きていけません。人間は本質的に交わりを作りだしていきます。その交わりは、全て愛のためです。2、3人でも、何百人いても、交わりを通し、支え合い、分かち合い、互いの理解を深め、そして共に喜び合うためにこそ、人の交わりはあるのです。そのような交わりの真ん中にはいつもイエス様がいてくださいます。

10月:わたしたちの本国は天にあります。(フィリピの信徒への手紙3:20)

 キリスト教の「天国」・・・「神の国」とも表現されますが・・・は、死後の世界の事だけを指しているのではありません。神の国とは、字の通り、神様が直接治めておられる状態のことであり、神様の愛や正義が貫徹され、誰一人悲しむ者が無く、全ての人が幸せである世界です。ですからこれは、単なる理想や彼岸の世界のことではなく、今生きている私たちの目標であり、使命であり、そして同時に希望でもあります。神様は一貫して「神の国」の実現を約束してくださっています。この約束を信じて歩むところに、大きく深い希望が生まれます。

 聖書の登場人物達は、神様の約束を信じ、希望をもって、人生という大きな旅を歩んでいました。そして多くの人々が、本当に旅に出ました。ユダヤ民族の祖、アブラハムは、「あなたから一つの国民が生まれる」という約束を信じ、旅立ちました。モーセに率いられたユダヤの民は、「乳と蜜の流れる地」(肥妖で平和な土地)に導き入れる、との約束を信じ、エジプトを脱出し、荒れ野に旅立ちました。そしてイエス様の弟子たちは、「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」というイエス様の約束を信じ、世界中に宣教の旅に出かけました。

 希望は、目には見えないものを根拠にしています。大事な人への愛、誰かから大切にされた経験、日々の小さな祈り、これらが私達に、明日を踏み出す力を与えてくれます。目には見えないもの、この世では取るに足りないほど小さいと見られているもの、それらの中に、私達の生きる力となるものがあるのです。

9月:求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイによる福音書7:7)

 聖書の言葉の中で、最も有名なものの一つでしょう。「求めよ。さらば与えられん。」明治期の人々は、この言葉に新しい時代の光を感じたことでしょう。日本で大切にされてきた価値観のひとつは、「役目を全うする」とうものだと思います。自分の「しなければならないこと」を行い、「責任を果たす」ことを、私達の社会は大切にしてきました。それはそれでとても尊いものですが、けれども、個人としての希望も大切です。この聖書の言葉は、神様が私たち一人ひとりの願い求めることに、しっかりと耳を傾けてくださり、それを叶えてくださるという、約束の言葉です。有り難い言葉です。

 では、次に課題になるのは、「何を願い求めるか」です。私達の願いはいっぱいあります。食べ物の好き嫌いから、世界平和まで、様々なことを願い求めます。神様は、何でもかんでも叶えてくださるわけではありません。私たちが心の底から願い求めることを叶えてくださるのです。私達が、心を込めて、真剣に、全身全霊を傾けて、神様に祈り求めるのは、何でしょう。

 それはきっと、自分ではない誰かの幸せだと思います。私達は、自分の欲望よりも、誰かが幸せになることを、より強く求めるものなのだと思います。「火事場の馬鹿力」は、誰かを助ける時に発揮されるものなのです。

 イエス様はいつも、誰かの幸せのために祈り、奉仕されました。イエス様の十字架は、自分の全てを失ってでも、人類を救いたいという思いの現れです。神様は私達を、愛する者として創ってくださいました。私達が会いの心で願い求めるものを、神様は必ず叶えてくださいます。

8月:必要なことはただ一つだけである。(ルカによる福音書10:42)

 私達の生活には、大切なことが幾つもあります。「あれも大事、これも大事」です。けれども、いざというときには、一番大切なものが明らかになります。k間から72年前の8月、日本ではみんなの心に、一番大切なものが明らかになりました。それは平和です。戦争によってたくさんの人々が傷つき、亡くなり、たくさんの苦しみを経験し、毎日の食事にも事欠く極めて厳しい生活の中で、何よりも平和が大切だと、みんなが痛感したのです。その後、生活も整い、経済も発展し、再び大切なものが幾つもできてきました。そして今、かつて痛感した一番大切なものが、少し見えにくくなっているようです。今一度、平和の大切さを確認しなければなりません。

 聖書に出てくる人々も、「一番大切なこと」を忘れないようにと努めていました。かつて奴隷として使役され、また荒れ野で苦しい度を続けていたとき、ユダヤの人々には一番大切なことが明らかでした。それは「神様を信じ、神様の言うことをしっかり聞く」でした。神様への信仰を中信に、人々は結束し、困難や苦しみを乗り越えて来たのでした。やがて生活が安定し、経済的に発展すると、大切なものを忘れ、信仰が乱れたのでした。イエス様の弟子達も様々な事に心乱されることがありました。その中で、イエス様の言葉をしっかりと聞く事を、一番大切なこととしたのでした。

 子育てに於いても、「あれも大事、これも大事」です。だからこそ、一番大切なものを忘れないようにしたいと思います。子どもの笑顔、子どもとの会話、子どもの存在そのものが無条件に祝福されていることを一番大切にして、日々の子育ての未知を歩んで行きたいと思います。

7月:喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12:15)

  「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」。こうできたらとても良いと分かっています。けれども、これを実行するのは、なかなか難しいものです。

喜んでいる人を前にすると、羨ましさや妬みに思いが出てきたり、悲しんでいる人を前にすると、「泣かないで」と説得したり、時には「いつまで悲しんでいるんだ」と叱ったりしてしまいます。相手を思いやるのは、難しいものです。

 思いやりは、「できればより良い目標」ではなく、「しなければならない課題」です。現在、思いやりの欠如によって発生している事件が、多く発生しています。宗教や民族の違いなどを主な理由として、相手を攻撃する暴力事件には、相手を理解しようとする意志と、立場の違う相手への思いやりはありません。暴力の連鎖は、私達を追いつめています。相手への思いやりは、私達の日々の生活のために必要なものなのです。

 人間は一人では生きていけない。共に生きていくためには、思いやりが必要。こんな当たり前のことが、何故難しいのでしょうか。子どもたちは、日々思いやりを実行しています。お休みのお友達のために祈り、お友達が元気でいることを喜びます。先日、私が珍しく体調を崩し、幼稚園のお礼拝をお休みしたとき、次の日に、何人もの子どもたちから「大丈夫?」と聞かれました。有り難いことです。「喜びは共に担えば倍に増え、悲しみは共に担えば半分に減る」とも聞きます。子どもたちの明るい笑顔は、お互いを思いやりながら共に生きていく中で、育まれているのかも知れません。

6月:神の国と神の義をもとめなさい。(マタイによる福音書6:33)

 6月は梅雨の時期、植物にとっては「恵みの雨」です。豊かな潤いで大きく成長する植物を見て、私達は、神様が創られる自然の豊かさ、美しさをたっぷりと味わいます。今月の聖書の箇所には、次のような言葉が含まれています。「空の鳥をみなさし・・・野の花を・・・注意して見なさい。」イエス様は私達の目を、小さな生き物の美しさへと向けさせます。そして、私達に、自分たちが神様からあいされていることの有り難さ、恵みを教えてくださるのです。

 また同じ箇所に次のような言葉も記されています。「明日のことまで思い悩むな。・・・その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 イエス様は私達に、私達が神様から愛されるほどの価値ある者であること、また神様がいつも私達を見守ってくださっていることを教えてくださいます。

 「神の義」これはつまり、「正義」の事です。私達にとって「正義」は比較的身近な言葉です。テレビや映画には、たくさんの「正義の味方」が活躍しています。正義の味方は、悪を倒します。けれども実は、それは二義的なことなのです。「正義」には、悪を倒すよりも大切なことがあるのです。それは、苦しむ者の尊厳の回復と悩む者の支えです。周囲の人々の評価や、社会の「常識」がどうであり、自分が正しいと思う道を、胸を張って歩いてゆくことが「正義」なのです。「正義の味方」は、そのような歩みを守る人々のことです。

 神様の「正義」は、裁きではなく愛です。深まるほどに、相手への理解と支えが進んでゆくのが、本当の正義だろうと思います。