4月:『子どもたちをわたしのところへ来させなさい。(マルコによる福音書10:14)

< 年主題>:イエスさまとともに生きる 〜愛の交わりの中で〜

< 年聖句>:互いに愛し合いましょう。 (ヨハネの手紙㈵ 4:7)

   

 チャプレンの藤原健久です。チャプレンとは「施設付き牧師」のことです。学校や病院等の施設で宗教活動を行う牧師を指します。私は、幼稚園の礼拝や宗教教育全般に携わっています。どうぞよろしくお願いします。

 生活表では毎月、その月の主題聖句を解説しています。今月は年度初めですので、

年主題聖句と共に解説いたします。

 ギリシア哲学では、「愛」が3つに分類されています。「エロス」:欲望の愛、

「フィリア」:友情の愛、「アガペー」:与える愛です。

聖書で用いられる「愛」は、全て「アガペー」です。自分のためではなく、相手のために尽くし、相手のことを大切にし、相手を生かそうとする愛、このような愛で、神様は私達を愛してくださり、私達は互いに愛し合うのです。

 イエス様は、その御生涯の中で多くの人々を愛してこられました。特に、貧しい人、

苦しんでいる人、小さくされている人を、大切にされ、共に歩んでこられました。当時、子どもは「未熟な存在」とみなされていました。けれどもイエス様は、子どもたちこそが神の国の中心であり、神様の救いを得ようとする者は、子どもたちを何より大切にし、

子どもたちと共に歩まなければならない、と明言されたのでした。

 私達の幼稚園は、そのような神様の愛を中心にし、イエス様の生き方に倣って、保育を行おうとしています。

私達は、「子どものため」と言いながらつい自分の思いを押しつけようとしがちですが、その子を心から大切にし、子どもと共に歩みたいと思います。

3月:『光の子として歩みなさい。』(エフェソの信徒への手紙5:8)

 

  先日、日曜学校で、お祈りのカードを作りました。イースターの準備として、いつもより少しだけ多く、お祈りをします。そのお祈りのテーマを、一人ひとりカードに書いたのです。「世界が平和になりますように」「少しでも人の役に立てますように」。みんなの優しい心が現れていました。

 子供たちの聖歌「ひかりひかり」はこんな歌詞です。「光、光、私たちは光の子ども、光のように・・・」後に続くのは「明るい子ども」「元気な子ども」「正しい子ども」です。幼稚園の子供たちを見ていると、みんな、この歌の通りの子供たちだなと感じます。はじけるような笑顔で、お友達と元気に遊び、「ありがとう」「ごめんなさい」「いいよ」の言葉が行き交います。子供たちはみんな、愛の光で輝いています。

 子供たちの存在は、私達にとって希望の光です。大人の世界には、いろんな事があります。子どもと大人の、何が違うのでしょう。光の子どもは、いつから光でなくなるのでしょう。じっくりと考えてみました。きっと、大人も子どもも、違いはないのでしょう。子どもの中にある神様の光は、大人になっても決して消えることはありません。もし今、大人が輝いていないとするなら、それは一時的に何かが覆い被さっているだけでしょう。それを取り除くのは、愛です。誰かを大切にして、みんなが幸せになるように、共に歩んでゆこうとすること、その事によって私達の中にある光は、再び明るく輝きます。

 子供たちと一緒に歩んでゆくことで、私達も共に輝き、私達一人ひとりが世界の希望となってゆきます。みんなが光の子どもです。

2月:『愛は、すべてを完成させるきずなです。』(コロサイの信徒への手紙3:14)

 キリスト教倫理で最も大切にされるのは、愛です。目の前の一人ひとりを大切にし、自分の幸せだけでなく人の幸せのために奉仕していく生き方が大切です。愛と同じように大切にされるものとして、正義があります。悪いことを見逃さず、正しい道を歩むことが大切です。正義を貫こうとすると、時には悪と戦う事が必要になります。ここでも大切なことがあります。悪と戦う武器は、あくまでも愛だということです。惜しみと暴力で戦うのではなく、愛をもって悪をただすのです。やはり、私達の生き方で最も大切なのは、愛なのです。

 コロサイの信徒への手紙は、伝道者パウロが教会の信徒に宛てた手紙の一つです。身の周りにある様々な宗教の教えに混乱している信徒達に、最も大切なものは愛なんで、ということを教えています。今月の主題聖句の前後には、大変興味深い記述があります。前には「互いに忍び会い・・・赦し合いなさい。」後には、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」とあります。愛を中心に、赦しと平和があるのです。赦すことで愛を確認し、愛によって平和が作り出される、と私達に教えているようです。

 世の中には様々な力があります。お金や暴力は、とても大きな力を持っているように感じます。けれども、本当は、最も力を持っているのが愛なのです。私達は、お金で買えないもの、暴力で作り出せないものを、愛によって得ることができます。人を大切にし、赦し、共に歩んでゆく愛、これこそ一番大事な道です。

1月:『見よ、わたしはあなたと共にいる。』(創世記28:15)

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。  

 クリスマスにはイエス様のお誕生をお祝いしました。クリスマスは、神様が人となられたことを通して、神様がいつも私達と共に居てくださることを教えてくださった出来事でした。イエス様のお名前の意味は「インマヌエル:神は我々と共におられる」(マタイ1:23)です。また、イエス様は十字架の死、復活の後、天に昇られました。その時、弟子達に言われました。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28:20)。イエス様は、その御生涯の最初から指し御まで、一貫して、神様が私達と共に居てくださる、ということを私達に教えてくださったのでした。
 このことは、イエス様がお生まれになるよりも前、旧約聖書の物語にもはっきりと記されています。冒頭の主題聖句は、イエス様のご先祖であるヤコブが、旅の途中に見た夢の中で聞いた神様の言葉です。ヤコブはこの時、兄弟とのトラブルで家を出て旅を続けている途中でした。困難な、苦しい状況の中で、神様が共に居てくださるとのメッセージを聞き、勇気づけられたのです。

 神様は、いつも一緒にいてくださいます。嬉しいときも苦しいときも。私達の成長をいつも見守ってくださり、祝福してくださるのが神様です。自分の事をいつも見ていてくれる。自分の事を分かってくれる。自分と一緒に歩いてくれる。そのような存在が身近にあると信じることで、子どもたちは勇気づけられるのでしょう。それを、神様の愛の働きを、具体的に表すのが、私達大人です。目には見えない神様の愛を、目に見える形で示していきます。大人も子どもも、神様の愛によって勇気づけられるのです。

 

12月:『いと高きところには栄光、神にあれ。』(ルカによる福音書2:14)

 クリスマスの夜、羊飼いたちに天使達が歌った歌の歌詞が、上記の言葉です。「この天使に天の大軍が加わり」と記されているので、空いっぱいに天使が居て、フル・オーケストラのような壮大なスケールの大音響だったのでしょう。羊飼い達は、大いに驚きながら、神様のなさることの偉大さに感動したことと思います。

 どうやら天国は、音楽と歌声で満ちているようです。聖書には、天国で天使達や、この世を去った人たちが、神様の前で、賛美の歌を歌っている場面が、よく描かれています。また、神様を信じる人々も、よく歌います。聖書には、本来、歌うために記されたお祈りの言葉がたくさんありますし、教会の礼拝も、元々は全て歌っていました。人間は、歌う生き物のようです。

 歌は、私達の心を喜びに導いてくれます。感謝祭でも御覧頂いたように、子どもたちは喜んで歌っています。私達も歌うことによって元気になります。

 歌は、神様が私達に与えてくださったプレゼントのようです。私達は歌うことで喜びの心になり、共に歌うことで人々と深いつながりを作りだし、そして賛美の歌を通して天国とつながります。

 「あらののはてに」の聖歌は、クライマックスで「グロリア、イン、エクセルシス、デオ」と歌います。これはこの聖句のラテン語の言葉です。この聖歌は、天使達の歌声を再現したものなのです。クリスマスをお祝いするのに、もっともふさわしいものは、賛美の歌声です。

 こどもたちの歌声は、正に「天使の歌声」です。この美しさは、歌の技術によってではなく、心の美しさによって作り出されます。私達もこどもたちと共に歌い、クリスマスをお祝いしましょう。

11月:二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのです。(マタイによる福音書18:20)

 一番最初の教会には、当然の事ながら、今のような立派な礼拝堂はありません。整った組織も、十分な資金もありません。ほんの少しの人数の信徒が、それぞれの家などに集まり、迫害を避けながら、ひっそりとお祈りしていました。冒頭の聖書の言葉にもあるように、正に2、3人ほどの教会も多かったことでしょう。社会の中では本当にちっぽけな存在、吹けば飛ぶような無力な教会ですが、けれどもその交わりには、温かさと力がありました。わずか2、3人とは言え、心の底から祈りを合わせ、力を合わせて活動している時には、その交わりのただ中に、イエス様がいてくださるのを、信徒は感じたのです。この聖書の箇所は、聖書記者が交わりの喜びを感じながら、イエス様が言われた言葉を思い起こし、その言葉の正しさをかみしめながら、活き活きと書き記したものだと思われます。

 キリスト教の大切な要素の一つが「コイノニア」~ギリシア語で「交わり」の意味~だと言われています。これはあくまで、愛の交わりです。共に神様に祈り、世々の人々を覚え、困難の中にある人々に奉仕するためのものです。単なる「仲良し集団」ではなく、ましてや、味方の数を増やし敵をやっつけようと言うものでは、決してありません。

 人は一人では生きていけません。人間は本質的に交わりを作りだしていきます。その交わりは、全て愛のためです。2、3人でも、何百人いても、交わりを通し、支え合い、分かち合い、互いの理解を深め、そして共に喜び合うためにこそ、人の交わりはあるのです。そのような交わりの真ん中にはいつもイエス様がいてくださいます。

10月:わたしたちの本国は天にあります。(フィリピの信徒への手紙3:20)

 キリスト教の「天国」・・・「神の国」とも表現されますが・・・は、死後の世界の事だけを指しているのではありません。神の国とは、字の通り、神様が直接治めておられる状態のことであり、神様の愛や正義が貫徹され、誰一人悲しむ者が無く、全ての人が幸せである世界です。ですからこれは、単なる理想や彼岸の世界のことではなく、今生きている私たちの目標であり、使命であり、そして同時に希望でもあります。神様は一貫して「神の国」の実現を約束してくださっています。この約束を信じて歩むところに、大きく深い希望が生まれます。

 聖書の登場人物達は、神様の約束を信じ、希望をもって、人生という大きな旅を歩んでいました。そして多くの人々が、本当に旅に出ました。ユダヤ民族の祖、アブラハムは、「あなたから一つの国民が生まれる」という約束を信じ、旅立ちました。モーセに率いられたユダヤの民は、「乳と蜜の流れる地」(肥妖で平和な土地)に導き入れる、との約束を信じ、エジプトを脱出し、荒れ野に旅立ちました。そしてイエス様の弟子たちは、「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」というイエス様の約束を信じ、世界中に宣教の旅に出かけました。

 希望は、目には見えないものを根拠にしています。大事な人への愛、誰かから大切にされた経験、日々の小さな祈り、これらが私達に、明日を踏み出す力を与えてくれます。目には見えないもの、この世では取るに足りないほど小さいと見られているもの、それらの中に、私達の生きる力となるものがあるのです。