11月:『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』(ローマの信徒への手紙12:15)

 現代は「同情」という言葉が、大変批判的に受け取られる時代だと思います。「同情するなら金をくれ」という映画の科白にもあるように、「同情」は、「上から目線で人と接し、自分の余力で手助けする」と受け取られています。それは、苦しみの根本的な解決にはならず、結果的に人の苦しみを固定化することになります。

 本来の「同情」は、そういうものではありません。英語では「コンパッション」と言います。コン:「共に」、パッション:「受難」を合わせた言葉ですので、その意味は「共苦」、「人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、その痛みから、行動を起こす」というものです。ある人は、これを「人に寄り添う、深い憐れみの心」と表現しました。

 今、世界では多くの悲劇的な出来事が起こっています。情報はすぐに伝わります。けれども、私達の「心」を苦しみに向けるのは、簡単ではないようです。評論家のように解説するだけでなく、また安易に「あの人が悪い」と決めつけて、それで解決と考えるのではなく、苦しんでいる人々の痛みに心を向け、その痛みからさまざまなことを考え、行動に移していければと思います。

 随分と寒くなっていました。ようやく「冬の足音が聞こえてくる」季節となりました。11月後半には、クリスマスの準備に入ります。クリスマスは神の子イエス様が生まれた喜びの日。けれどもそれは、粗末な馬小屋で貧しい夫婦が厳しい旅の途中で危険な出産をした物語でもあります。ある人は「マリアとヨセフは難民の一人だ」と言いました。世界の苦しみを代表するかのような厳しい状況の中で、イエス様はお生まれになりました。私達がクリスマスに世界の平和をお祈りするのは、まさに正しく、必要なことです。イエス様を中信にお祈りすることで、私達は苦しむ人々の痛みに心を向け、苦しみを少しでも和らげようと、自分に出来ることを行う決意を新たにするのです。

10月:『あなたがたは地の塩である。』(マタイによる福音書5:13)

 今年の春から、私は、奈良県にある教会の管理牧師をしています。教会の向かいに、立派なお寺があります。通りに面したところに、大きな掲示板があり、毎月、大きな力強い時で、短いメッセージが書かれています。「貧乏、辛抱、希望、この3つはワンセット。」「「親とアミダさん、トコトン私の見方。」「蝉は脱皮する。人間には心の脱皮アリ。」「人生の『目標』が決まれば、『妄想』は去る。」心に残るものばかりです。先日、メッセージの作者である老僧にお出会いしました。粗末な袈裟を身にまとい、目をまん丸に見開いて、大きな手を振り上げて、優しく、けれども腹の底に響くような声で、力強く壇信徒さん方に語りかけておられました。「ワシはこの貧乏寺を復興しようと尽力してきた。ピリッとしたお寺にしようとしてきた。」聞けばお歳は80代後半、社会が大変な時期にお寺を必死になって守ってこられたとのこと。自称「ヤンチャ坊主」。力強く仏教の教えを語りながら、軽佻浮薄な日本の現状を嘆いておられました。このお寺が、社会の中にあって「ピリッとした」存在になり、人々の信仰心と道徳心を刺激し、少しでも社会をよくするようにと、壇信徒さん達を励ましておられました。

 イエス様は弟子達に、社会の中でも「塩」となるように教えられました。塩は私達の生命維持に不可欠なものです。けれどもこの塩は、単なる「塩化ナトリウム」ではありません。様々なミネラルや、ときには刺激物も含んだ、ちょっと強烈な塩です。舐めた人の舌を刺し、この塩を使った料理を食べた人の目を覚まします。

 私達は毎日の生活でくろうしています。それは日々の生活を「維持する」ためではなく、少しでも、何かを「良くする」ための苦労なのです。私達の中にある、神様からいただいた塩は、ピリッと働いて、自分も、周りの人も刺激してゆきます。時には苦く感じるときもありますが、それは、何かが良い方に変化する時の苦み、きっと全てが相働いて、良い方へと進んでゆくことでしょう。

9月:平和な人には未来がある。(旧約聖書*詩編37:37)

 2学期が始まりました。子供たちがみんな元気に幼稚園に来てくれました。みんな素敵な笑顔です。夏休み中にいっぱい楽しいことがあったのでしょう。背丈も伸び、ちょっとずつお兄さん、お姉さんになっているのを感じます。

 残念ながら今年の2学期は、大きな災害のニュースと共に始まりました。大きな台風による東北、北海道での被害、イタリアでの地震の被害、彼の地の人々の苦しみを思います。祈祷書の中に「難民とその他の被災者のため」という祈りがあります。その中に「どうか、戦争、弾圧、災害などのために住まいを失った人々、離散させられた人々、また飢えと病のうちにある人々を憐れみ、その必要を満たしてください」と書かれています。今年のテーマは「平和」です。私達は、「平和」をまず「争いが止むこと」と考えます。けれども「平和」は、「みんなが幸せな世界」です。災害に苦しむ人々を助けることも、平和のための働きです。祈り、奉仕したいと思います。

 「平和」わ、現在の課題であるっだけでなく、未来にも継続さえていくものです。私達大人の使命は、今の平和だけでなく、平和な未来を子供たちのために残していくことでもあります。そのために必要なのは、私達の姿勢です。「どれだけ出来たか」と、結果だけを問うのではなく、「どうしようとしているか」という姿勢が問われます。日々の生活の中で、自分さえよければいい、としているのか、みんなの平和のために少しでも努力しているのか、改めて自分を振り返ってみたいと思います。私達は非力な者ですので、十分な結果を作り出すことは出来ません。けれども、私達が不十分であっても平和のために努めている姿は、子供たちにとって、自分のお手本になり、誇りとなり、そして未来への希望となるでしょう。

 「平和」とは、「平穏無事」という「状態」のことではなく、「みんなの幸せのために努めてゆこう」という「方向性」なのだと思います正しい方向性は、子供たちに明るい未来を与えます。

8月:平和を実現する人々は、幸いである。(マタイによる福音書5:9)

 イエス様は、今月の主題聖句を含む重要な教えの冒頭で、「貧しい人々は幸い、紙の国はあなた方のもの」と語られました。この地上で貧しい人々、弱い人々に優先的に目を向け、彼らの幸せのために奉仕することが、平和への道であることを、イエス様は示されました。キリスト教における平和への考え方は、この教えに基づいています。

 さて、先日、教会の日曜学校キャンプが行われました。26名の小学生と6名の幼稚園児、そして多くのスタッフたちによる、琵琶湖での1泊2日のキャンプです。保護者の方々もスタッフとしてご奉仕下さいました。今年も無事に、楽しくキャンプを行うことが出来ました。感謝です。キャンプの1日目が終わり、子どもたちが就寝の準備に入り、少しほっとする時間が出来ました。私は疲れを癒やしながら、今日1日のことを振り返り、「幸せだなぁ」と感じました。周囲には、華やかなものがいっぱいあります。キャンプ場は質素で、生活に必要なものしかありません。けれどもここには、こどもたちにとって良いものがたくさんあります。大好きなお友達、子どもが中心のプログラム、子ども達のお世話をしてくれる大人達。キャンプ場の中は、子どもが中心の世界です。大人は子どもたちが楽しくキャンプをすることが出来るように奉仕するのです。キャンプは、イエス様の言われる平和が、実現する場なのだと思わされました。

 平和は人類が心から望むものです。平和な世界の実現のために、今まで様々な方策が論じられ、実践されてきました。その中で、私達が目指すのは、子どもの幸せを通した平和の実現だと思います。子どもの幸せを中信に世界を見つめ、そのために奉仕したいと思います。子どもたちにとって、自分の周りの大人達が、自分のことを大事に思ってくれている、自分のために力を尽くしてくれていると実感出来るのは、どれほど幸せなことでしょう。そして、大人達が、自分だけでなく他の子どもや、困っている人々の幸せのために奉仕している姿を見るとき、大人は子どもの誇りとなり、またこれからの「お手本」となって自分の歩む道を指し示すものになるでしょう。

 子どもたちと共に、平和を祈り求めてゆきたいと思います。

7月:探しなさい。そうすれば、見つかる。(マタイによる福音書7:7)

 聖書の言葉の中で、最も有名なものの一つでしょう。かつて、NHKの「にほんごであそぼ」で、この言葉の文語訳「求めよ。さらば与えられん。」が取り上げられたことがあります。

 神様に祈り求めれば、必ずかなえられる。神様は、私達に最も良い物を与えてくださる。聖書は、徹底した希望を語ります。

 多分、日本にキリスト教が伝わって、日本人が一番ショックを受けたのが、この言葉だったのでしょう。それまでの日本の文化では、個人よりも集団が重視されていました。個人は、村や町や国に奉仕する者として、それぞれに与えられた役目を忠実に果たしてゆくことが、大切とされていました。それに対してこの聖書の言葉は、一人ひとりが自分の思いを大切にして、その願いの実現のために尽力して良いんだ、ということを示しています。そしてそのような努力を、神様は祝福されるんだ、との信仰を現しています。

 これは、一人ひとりに与えられた幸福追求の権利を保障するものです。もちろんこの考えも行き過ぎると「わがまま」になります。他人の権利を侵す行為は戒められます。それは世俗の世界では法律が行い、そして信仰の世界では、神様は全ての人を愛しておられるという教えが行います。

 私達の祈りはかなえられる。けれども現実には、かなえられない願いもあります。現実は複雑で難しいです。この聖書の言葉は、「料金を払えば希望のモノが手に入る」というような保障を行うものではありません。「神様は必ず私達を愛し、決して見捨てることはない」という希望を語るものなのです。実現しなかったと思える私達の祈りは、形を変えてかなえられているのでしょう。神様は、全力を尽くして、私達にとって最も良いものを、私達に与えようとしておられるのです。

 神様への信頼、未来への希望、これらは私達を強く、優しくしてくれます。子どもたちは当たり前のように希望を持ち、大人はその希望を守ために尽力する、そのような世界でありたいと思います。

6月:安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。(マタイによる福音書14:27)

 イエス様の弟子達が、舟に乗っているときに嵐に見舞われ、遭難の危機に瀕するが、イエス様の力で嵐は静まる・・・というエピソードが、聖書には2カ所あります。一つはイエス様が弟子達と一緒に乗っておられます。その時はイエス様は弟子達に次のように語られました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」もう一つは、イエス様は一緒に乗っておられず、弟子達が嵐に翻弄されているのを見て、湖の上を歩いて弟子達の所に来てくださいます。その時に言われたのが、上記の聖句です。前者の言葉は厳しく、後者は優しいです。ここには、イエス様の弟子達の鍛え方、と言いますか、教育方針のようなものがあるように思います。それは、イエス様が居なくても怖がらずに課題に立ち向かえる、つまりは、弟子達の「自立」です。後者の言葉は、弟子達がまだ独り立ちできないのを見て、イエス様が優しく励まして、自立を促しておられるように思います。

 自分を守ってくれていた人から離れて、自立してゆくのは、勇気の要ることです。そのためには、自分への自信と周囲への信頼感が必要です。それらを造りだしてゆくのは、愛された経験と、今も愛されているという確信です。イエス様は弟子達を心から愛されました。それによってイエス様は弟子達に「私が近くに居ても、居なくても、いつも愛しているから、安心して歩み出してごらん」というメッセージを伝えたのでしょう。

 子供たちは大人の保護の元で、少しずつ大きくなってゆきます。大人に守られながら、一つ一つのことに挑戦し、自分の世界を広げてゆきます。そしていつか、大人の手を離れて自立してゆきます。そのためには、大人からいっぱい愛される経験が必要です。自分は愛されている価値あるものだ。今も私は愛されている。自分も人々を愛してゆこう。世界は愛で満ちている。その思いをもって、子供たちは新しい世界へ一歩を踏み出してゆきます。

 いっぱい、いっぱい、子供たちを愛してゆきたいと思います。

5月:『見よ、それは極めて良かった。』(創世記 1:31)

 分厚い聖書の最初のページには、天地創造の物語が記させています。神様が6日間で世界を造り、7日目に休まれたという物語が元になって、現在の1週間のサイクルが創られました。

 神様は最初に闇の中から光を創り、混沌とした世界に秩序を与え、時間の流れを始められました。それから天地を造り、植物を創り、太陽と月と星を創り、生き物を創り、そして6日目の最後に、神様の姿に似せて人間を創られました。

 進化論などと対立するかのように言われる創造物語ですが、被造物が創られた順番は現在の科学的な諸説と矛盾しません。(太陽より先に地球の大地が創られていますが、これはかつて「天動説」が信じられていたためであると考えらます。)確かに何十億年という時間と「6日間」とは相容れませんが、これは、「24時間✕6」という現在の時間の区切り方ではなく、信仰的な時間の流れを指しているものだと思われます。当時の人々もそれほど非科学的であったとは思えません。

 創造物語で最も大切なのは、科学的な説明ではなく、神様がこの世界を愛しておられるという信仰的事実の解き明かしなのです。私達も自分で作ったものには愛着が出るものです。ましてや神様がご自分が創ったものに愛を注がれないなずがありません。全ての被造物には神様の愛が注がれているのです。もちろん私達人間にも、この上ない愛が注がれています。

 神様は全てのものを「良いもの」として創られました。私達は不完全で欠点の多いものですが、けれども根本的に神様に創られた良い存在なのです。そのことは、子どもたちを見ていると実感します。悪い子なんて、一人も居ません。たとえ叱られるようなことをしてしまっても、「ごめんなさい」と言えば仲直りして、再びお友達と仲良く笑顔で遊びます。先生達も、恐い顔で叱りながらも、「あなたは本当はとっても良い子なんだよ」というメッセージを子供たちに伝え続けています。

 春は、神様の愛を伝えるのにとても良い季節であるように思います。お庭にも町中にも、神様が創られたきれいな、素敵なもので一杯です。子どもたちは、いっぱいの愛に囲まれて日々を過ごしているのです。