1月:『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。』(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18)

 わたしたちの幼稚園は、「見えないもの」を一番大事にしようとしています。まずは優しい「心」、そしてお友達同士の「つながり」、誰かのことを覚えて行う「お祈り」、そして、信頼と希望と愛の源である「神様」、全て見えないものですが、何より大事なものです。

 見えないものは、見えるものとなって現れます。心もお祈りも、具体的な形や行動になって現れます。けれどもそれらは「見えやすいもの」と「見えにくいもの」に分かれます。そして、良くないものほど目について、良いものはなかなか見えにくいようです。それは特に、大人の世界で顕著です。

 悪い心から、様々な悪いものが現れます。暴力、貧欲、過当な競争、排外主義を伴う歪んだ自尊心、等々。これらは新聞を開けば、いくらでも見つけることができます。このようなものは、私達の耳目を釘付けにし、驚きや悲しみと共に、復讐心や憎しみなど悪い心を再生産してしまいます。

 良い心からは、助け合い、分かち合い、反省、相互理解などが生まれます。それらは私達を癒し、つなげ、力づけてくれるものです。けれどもなかなか私達の目には付きません。良いものは、とても穏やかな形で表れるので、私達が気付かなかったり、無視してしまうことがあるのです。

 良いものは、私達が心をしっかりと向けないと、見えないようです。私達がこの世界の良いものを大切にし、自分でも良いことを行っていこうと努めることで、見えてくるもののようです。

 子どもたちの中には、良いものがいっぱい詰まっています。子どもの中の良いものを、しっかりと見つめることのできる大人でありたいと思います。

12月:『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』(ルカによる福音書1:28)

 クリスマス・ページェントの練習が始まりました。私は毎年、子供たちによるクリスマスの歌声を聞くと、涙が出そうになります。澄んだ声で、神様の御子の誕生を祝う歌が歌われるのを聞くと、心の中が、懐かしい思いでいっぱいになるのです。

 懐かしさの思いは、過去を思い出すことから生まれます。けれども、クリスマスの時期に現れる懐かしさは、それだけではありません。子供たちの歌う歌んは、私が子どもの頃に歌ったものもありますが、そうでないものもあるのですから。この懐かしさは、もっと深いところから出ているように思います。それは、命の根源です。

 私達の命が神様によって創られたこと、私達は神様から愛されて生を受けたことを、私達の魂が覚えていて、その魂の記憶が、クリスマスの歌声によって呼び覚まされるように思うのです。

 私達は神様に創られた者、だから私達の中には、神様の愛がいっぱい詰まっています

。私達は愛し合うことができます。私達は優しくなれます、そのことを思い起こし、感謝するのが、クリスマスの意義なのかも知れません。

 「あなたは恵まれているよ。あなたの側には、いつも神様が居てくださっているよ。おめでとう。」天使がマリアに告げた言葉は、私達にも告げられています。クリスマスの喜びを、世界中の人々と共に分かち合いたいと思います。

11月:『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』(ローマの信徒への手紙12:15)

 現代は「同情」という言葉が、大変批判的に受け取られる時代だと思います。「同情するなら金をくれ」という映画の科白にもあるように、「同情」は、「上から目線で人と接し、自分の余力で手助けする」と受け取られています。それは、苦しみの根本的な解決にはならず、結果的に人の苦しみを固定化することになります。

 本来の「同情」は、そういうものではありません。英語では「コンパッション」と言います。コン:「共に」、パッション:「受難」を合わせた言葉ですので、その意味は「共苦」、「人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、その痛みから、行動を起こす」というものです。ある人は、これを「人に寄り添う、深い憐れみの心」と表現しました。

 今、世界では多くの悲劇的な出来事が起こっています。情報はすぐに伝わります。けれども、私達の「心」を苦しみに向けるのは、簡単ではないようです。評論家のように解説するだけでなく、また安易に「あの人が悪い」と決めつけて、それで解決と考えるのではなく、苦しんでいる人々の痛みに心を向け、その痛みからさまざまなことを考え、行動に移していければと思います。

 随分と寒くなっていました。ようやく「冬の足音が聞こえてくる」季節となりました。11月後半には、クリスマスの準備に入ります。クリスマスは神の子イエス様が生まれた喜びの日。けれどもそれは、粗末な馬小屋で貧しい夫婦が厳しい旅の途中で危険な出産をした物語でもあります。ある人は「マリアとヨセフは難民の一人だ」と言いました。世界の苦しみを代表するかのような厳しい状況の中で、イエス様はお生まれになりました。私達がクリスマスに世界の平和をお祈りするのは、まさに正しく、必要なことです。イエス様を中信にお祈りすることで、私達は苦しむ人々の痛みに心を向け、苦しみを少しでも和らげようと、自分に出来ることを行う決意を新たにするのです。

10月:『あなたがたは地の塩である。』(マタイによる福音書5:13)

 今年の春から、私は、奈良県にある教会の管理牧師をしています。教会の向かいに、立派なお寺があります。通りに面したところに、大きな掲示板があり、毎月、大きな力強い時で、短いメッセージが書かれています。「貧乏、辛抱、希望、この3つはワンセット。」「「親とアミダさん、トコトン私の見方。」「蝉は脱皮する。人間には心の脱皮アリ。」「人生の『目標』が決まれば、『妄想』は去る。」心に残るものばかりです。先日、メッセージの作者である老僧にお出会いしました。粗末な袈裟を身にまとい、目をまん丸に見開いて、大きな手を振り上げて、優しく、けれども腹の底に響くような声で、力強く壇信徒さん方に語りかけておられました。「ワシはこの貧乏寺を復興しようと尽力してきた。ピリッとしたお寺にしようとしてきた。」聞けばお歳は80代後半、社会が大変な時期にお寺を必死になって守ってこられたとのこと。自称「ヤンチャ坊主」。力強く仏教の教えを語りながら、軽佻浮薄な日本の現状を嘆いておられました。このお寺が、社会の中にあって「ピリッとした」存在になり、人々の信仰心と道徳心を刺激し、少しでも社会をよくするようにと、壇信徒さん達を励ましておられました。

 イエス様は弟子達に、社会の中でも「塩」となるように教えられました。塩は私達の生命維持に不可欠なものです。けれどもこの塩は、単なる「塩化ナトリウム」ではありません。様々なミネラルや、ときには刺激物も含んだ、ちょっと強烈な塩です。舐めた人の舌を刺し、この塩を使った料理を食べた人の目を覚まします。

 私達は毎日の生活でくろうしています。それは日々の生活を「維持する」ためではなく、少しでも、何かを「良くする」ための苦労なのです。私達の中にある、神様からいただいた塩は、ピリッと働いて、自分も、周りの人も刺激してゆきます。時には苦く感じるときもありますが、それは、何かが良い方に変化する時の苦み、きっと全てが相働いて、良い方へと進んでゆくことでしょう。

9月:平和な人には未来がある。(旧約聖書*詩編37:37)

 2学期が始まりました。子供たちがみんな元気に幼稚園に来てくれました。みんな素敵な笑顔です。夏休み中にいっぱい楽しいことがあったのでしょう。背丈も伸び、ちょっとずつお兄さん、お姉さんになっているのを感じます。

 残念ながら今年の2学期は、大きな災害のニュースと共に始まりました。大きな台風による東北、北海道での被害、イタリアでの地震の被害、彼の地の人々の苦しみを思います。祈祷書の中に「難民とその他の被災者のため」という祈りがあります。その中に「どうか、戦争、弾圧、災害などのために住まいを失った人々、離散させられた人々、また飢えと病のうちにある人々を憐れみ、その必要を満たしてください」と書かれています。今年のテーマは「平和」です。私達は、「平和」をまず「争いが止むこと」と考えます。けれども「平和」は、「みんなが幸せな世界」です。災害に苦しむ人々を助けることも、平和のための働きです。祈り、奉仕したいと思います。

 「平和」わ、現在の課題であるっだけでなく、未来にも継続さえていくものです。私達大人の使命は、今の平和だけでなく、平和な未来を子供たちのために残していくことでもあります。そのために必要なのは、私達の姿勢です。「どれだけ出来たか」と、結果だけを問うのではなく、「どうしようとしているか」という姿勢が問われます。日々の生活の中で、自分さえよければいい、としているのか、みんなの平和のために少しでも努力しているのか、改めて自分を振り返ってみたいと思います。私達は非力な者ですので、十分な結果を作り出すことは出来ません。けれども、私達が不十分であっても平和のために努めている姿は、子供たちにとって、自分のお手本になり、誇りとなり、そして未来への希望となるでしょう。

 「平和」とは、「平穏無事」という「状態」のことではなく、「みんなの幸せのために努めてゆこう」という「方向性」なのだと思います正しい方向性は、子供たちに明るい未来を与えます。

8月:平和を実現する人々は、幸いである。(マタイによる福音書5:9)

 イエス様は、今月の主題聖句を含む重要な教えの冒頭で、「貧しい人々は幸い、紙の国はあなた方のもの」と語られました。この地上で貧しい人々、弱い人々に優先的に目を向け、彼らの幸せのために奉仕することが、平和への道であることを、イエス様は示されました。キリスト教における平和への考え方は、この教えに基づいています。

 さて、先日、教会の日曜学校キャンプが行われました。26名の小学生と6名の幼稚園児、そして多くのスタッフたちによる、琵琶湖での1泊2日のキャンプです。保護者の方々もスタッフとしてご奉仕下さいました。今年も無事に、楽しくキャンプを行うことが出来ました。感謝です。キャンプの1日目が終わり、子どもたちが就寝の準備に入り、少しほっとする時間が出来ました。私は疲れを癒やしながら、今日1日のことを振り返り、「幸せだなぁ」と感じました。周囲には、華やかなものがいっぱいあります。キャンプ場は質素で、生活に必要なものしかありません。けれどもここには、こどもたちにとって良いものがたくさんあります。大好きなお友達、子どもが中心のプログラム、子ども達のお世話をしてくれる大人達。キャンプ場の中は、子どもが中心の世界です。大人は子どもたちが楽しくキャンプをすることが出来るように奉仕するのです。キャンプは、イエス様の言われる平和が、実現する場なのだと思わされました。

 平和は人類が心から望むものです。平和な世界の実現のために、今まで様々な方策が論じられ、実践されてきました。その中で、私達が目指すのは、子どもの幸せを通した平和の実現だと思います。子どもの幸せを中信に世界を見つめ、そのために奉仕したいと思います。子どもたちにとって、自分の周りの大人達が、自分のことを大事に思ってくれている、自分のために力を尽くしてくれていると実感出来るのは、どれほど幸せなことでしょう。そして、大人達が、自分だけでなく他の子どもや、困っている人々の幸せのために奉仕している姿を見るとき、大人は子どもの誇りとなり、またこれからの「お手本」となって自分の歩む道を指し示すものになるでしょう。

 子どもたちと共に、平和を祈り求めてゆきたいと思います。

7月:探しなさい。そうすれば、見つかる。(マタイによる福音書7:7)

 聖書の言葉の中で、最も有名なものの一つでしょう。かつて、NHKの「にほんごであそぼ」で、この言葉の文語訳「求めよ。さらば与えられん。」が取り上げられたことがあります。

 神様に祈り求めれば、必ずかなえられる。神様は、私達に最も良い物を与えてくださる。聖書は、徹底した希望を語ります。

 多分、日本にキリスト教が伝わって、日本人が一番ショックを受けたのが、この言葉だったのでしょう。それまでの日本の文化では、個人よりも集団が重視されていました。個人は、村や町や国に奉仕する者として、それぞれに与えられた役目を忠実に果たしてゆくことが、大切とされていました。それに対してこの聖書の言葉は、一人ひとりが自分の思いを大切にして、その願いの実現のために尽力して良いんだ、ということを示しています。そしてそのような努力を、神様は祝福されるんだ、との信仰を現しています。

 これは、一人ひとりに与えられた幸福追求の権利を保障するものです。もちろんこの考えも行き過ぎると「わがまま」になります。他人の権利を侵す行為は戒められます。それは世俗の世界では法律が行い、そして信仰の世界では、神様は全ての人を愛しておられるという教えが行います。

 私達の祈りはかなえられる。けれども現実には、かなえられない願いもあります。現実は複雑で難しいです。この聖書の言葉は、「料金を払えば希望のモノが手に入る」というような保障を行うものではありません。「神様は必ず私達を愛し、決して見捨てることはない」という希望を語るものなのです。実現しなかったと思える私達の祈りは、形を変えてかなえられているのでしょう。神様は、全力を尽くして、私達にとって最も良いものを、私達に与えようとしておられるのです。

 神様への信頼、未来への希望、これらは私達を強く、優しくしてくれます。子どもたちは当たり前のように希望を持ち、大人はその希望を守ために尽力する、そのような世界でありたいと思います。