10月:『あなたがたは地の塩である。』(マタイによる福音書5:13)

 今年の春から、私は、奈良県にある教会の管理牧師をしています。教会の向かいに、立派なお寺があります。通りに面したところに、大きな掲示板があり、毎月、大きな力強い時で、短いメッセージが書かれています。「貧乏、辛抱、希望、この3つはワンセット。」「「親とアミダさん、トコトン私の見方。」「蝉は脱皮する。人間には心の脱皮アリ。」「人生の『目標』が決まれば、『妄想』は去る。」心に残るものばかりです。先日、メッセージの作者である老僧にお出会いしました。粗末な袈裟を身にまとい、目をまん丸に見開いて、大きな手を振り上げて、優しく、けれども腹の底に響くような声で、力強く壇信徒さん方に語りかけておられました。「ワシはこの貧乏寺を復興しようと尽力してきた。ピリッとしたお寺にしようとしてきた。」聞けばお歳は80代後半、社会が大変な時期にお寺を必死になって守ってこられたとのこと。自称「ヤンチャ坊主」。力強く仏教の教えを語りながら、軽佻浮薄な日本の現状を嘆いておられました。このお寺が、社会の中にあって「ピリッとした」存在になり、人々の信仰心と道徳心を刺激し、少しでも社会をよくするようにと、壇信徒さん達を励ましておられました。

 イエス様は弟子達に、社会の中でも「塩」となるように教えられました。塩は私達の生命維持に不可欠なものです。けれどもこの塩は、単なる「塩化ナトリウム」ではありません。様々なミネラルや、ときには刺激物も含んだ、ちょっと強烈な塩です。舐めた人の舌を刺し、この塩を使った料理を食べた人の目を覚まします。

 私達は毎日の生活でくろうしています。それは日々の生活を「維持する」ためではなく、少しでも、何かを「良くする」ための苦労なのです。私達の中にある、神様からいただいた塩は、ピリッと働いて、自分も、周りの人も刺激してゆきます。時には苦く感じるときもありますが、それは、何かが良い方に変化する時の苦み、きっと全てが相働いて、良い方へと進んでゆくことでしょう。